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直感と論理の間にある知的結晶

私たちは、直感ではあることが正しいと感じているにもかかわらず、それを言葉で順序立ててうまく説明することができないことがあります。

その場合、直感的な言葉でストレートに表現するしかなくなります。その直感を強く共有している人同士では同意が得られますが、納得していない人や反対の考えを持つ人の同意は得られません。

その場合、どうにかして言葉で順序立てて説明できるように考えるしかありません。それを諦めれば、相手を無視するか、議論から懐疑的な人たちを排除するしかなくなるためです。それは社会全体で見れば分断や一種の社会的暴力となりかねません。

さらに、ここで問題になるのは、直感で正しいと感じることが言葉でうまく説明できない場合、それは主観的であるとか恣意的、あるいは空想的な意味での理想主義的であるというレッテルを貼られてしまうということです。これが不確実性を伴うものであれば、楽観的、あるいは悲観的というレッテルが貼られます。

一方で、懐疑的な意見や反対意見を持つ側は、その意見を論理的に言葉で説明できる、というケースがあります。そうなると、ますます不利な状況に陥ります。彼らから、先ほど挙げたようなレッテルを貼られてしまうと、その議論全体を第三者が知った際に、レッテルを貼られた弱い意見と、論理的な強い意見という形で捉えられてしまうためです。

ここに直感と論理のギャップがあると考えてしまうというバイアスも重なってきます。論理は正しく、直感は信用できないという根深い思い込みです。

しかし、本来は直感で正しいと考えたことは、往々にして論理的にも正しいという説明ができるはずなのです。直感と論理は相反するものではありません。直感と論理を結び付ける方法を、まだ見つけられていないだけに過ぎません。

反対意見が論理的に説明できるのは、その前提条件や目的、あるいは不確実性に対する仮定に差があるためです。このため、異なる前提条件、目的、仮定の下で、直感的に正しいと感じるものを論理的に説明することは、矛盾ではありません。

そして、どちらの意見も論理的に説明できるようになれば、あとは前提条件、目的、仮定をどうするかという点に議論の焦点を当てることができます。そうなれば、議論を取り巻く第三者も、レッテルや議論の強さといった印象による判断ではなく、前提条件、目的、仮定に同意するかどうかで意思を表明できるようになります。

この、直感で正しいと感じていることを言葉で論理的に説明するために、私たちが見つけ出さなければならないものが、私が知的結晶と呼んでいるものなのです。

国益の心理的捕縛

ここで、1つの知的結晶の実例を紹介しようと思います。それは世界平和という理想と、その反論としての国益を巡る論理的な説明に関するものです。

通常、世界平和は直感的に望ましいと考えられますが、現実の国際社会の中での国益というリアリズムの前では、実現不可能な理想として片付けられがちです。

国益を端的に言えば、自国が生き延び、繁栄するために有利な状況です。

ある2つの選択肢がある場合、より有利になる方を選択することが、国益に適う意思決定ということになります。

しかし、ある選択肢が自国の存続や繁栄に有利だと言うとき、それはいつの時点の有利性を言うのでしょうか。

歴史的に見れば、ある戦争に負けたことが、その国を長期的に存続させたという場合もあります。

また、国が繁栄したことが、結果的にその国の崩壊につながったということもあり得るでしょう。

これは、国益の予測不能性を意味します。

さらに国益という言葉は、往々にして軍拡や他国に対する強硬策の方に意思決定を誘導しようとする人たちが使います。

国益の予測不可能性を考えると、戦争という通常人々がわざわざ選びたくはなく、不確実性の高い選択を決断させるためのレトリックだと言わざるを得ません。

そして、真にその国の存続と繁栄を望むのであれば、国益という指標に着目することは意味がありません。

着目すべきは、恒久平和、ガバナンス、そして経済的豊かさとリスク管理です。

恒久平和が達成され、国内のガバナンスが適切に機能し、十分に経済的に豊かで、不確実性を制御可能な水準に抑えることができれば、その国は容易に存続と繁栄を手に入れることができます。

そして、国益の追求は進歩的に蓄積されるものではありません。当たれば増え、外れれば減る、投機的なものです。

従って、国益という予測不能で戦争のためのレトリックとして使われ、進歩的な蓄積のないものを指標にすることは、合理的ではありません。

それよりも、恒久平和、ガバナンス、経済的豊かさ、そしてリスク管理を、進歩的に蓄積可能なものにするための方法を考えて、それを追求するべきです。

これは、これらを測定する指標を作って度合いを計測して管理しようということを言っているのではありません。

これらを実現するための知識や技術を蓄積していくべきだということです。そして、その知識や技術は、他国に利用されれば、ますます有利に機能します。

このため、これらの知識や技術の蓄積は、進歩的な蓄積になります。

翻って国益を追求するための知識や技術は、この性質を持ちません。なぜなら、他国が利用すると、自国が不利になるためです。

つまり、国益のための知識や技術は、進歩的に蓄積することができないのです。

このように考えてみると、国益の追求は、むしろその国の長期的な存続や繁栄に対しては害になることがわかります。もちろん短期的な現実として国益という基準に基づいて決断をせざるを得ない場面はあるでしょう。

しかし、少なくとも、国益のための長期的な戦略というのは幻想であり非合理的な発想です。長期的には、進歩的な蓄積により存続と繁栄を確実なものにしていくという戦略が合理的です。

国益は長期的な国家の存続や繁栄を人質に取っているようなものです。

人質が生存のために凶悪犯を心理的に擁護してしまうという、ストックホルム症候群と呼ばれる現象に似ているように思えます。

私たちは、それしか道がないと思いこむことで、このような心理的捕縛の状態に陥ってしまうことがあるようなのです。

自然数学

この分析は、単に世界平和を肯定するための考え方や、それに反対する意見に反論するための正論ではありません。

これは、数学と同様の客観的な論理モデルです。このため、あらゆる場面で世界平和が合理的だという主張ではありません。短期的には、多くの場面で国益のような考え方が有用であることを認めることになります。

なぜなら、累積により差が生じる効果は、時間が長いほど影響が大きくなりますが、短期的には影響が小さいためです。

一方で、長期的にはどこかの時点で国益の考え方は必ず不合理になる時点があります。それは論理に基づいた数学的な事実です。

これは形式的な数学表現にすることは難しい面があります。しかし、形式的に表現できないとしても、その論理構造の強度が強いことには変わりがありません。

このような数学的な強度を持つ論理を、自然言語で表現することを、私は自然数学と呼んでいます。

先程の例は、この自然数学に基づいた構造の上で議論しているため、強力なのです。

このように、数学的構造を持つ知的結晶を見つけだすことで、直感として正しいと感じることを、論理的に説明できるようになります。

さいごに

直感も、もちろん常に正しいわけではありません。

しかし、誤りやすい性質であるとか、非合理的であるという考え方は、直感の特性を見誤っていると言わざるを得ません。

直感と既存の論理的な説明とが競合してぶつかり合っているところがあれば、そこに知的結晶が眠っている可能性が高いのです。

そして、直感による評価を表現できるような数学的構造を、言葉による論理で明らかにしていくことで、この結晶を掘り起こすのです。

それがうまくいけば、直感的に訴えるだけでなく、論理的にも合理的な意見を提示することができます。

そして、それこそが私たちの知的進歩の一歩となり、私たちは前に進んでいくことができるのです。